2010.07.15
日本仏教の歴史
僕にとっての成仏とは釈尊のように現世に居ながらにしてあらゆる煩悩から開放され「煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、智慧の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい)という。」ところの菩提の境地に至りたいという事のようだと思うのです。
ただこれだけの事なのに仏教には現在十三宗もあり、自分が関係するお寺が何宗であるのか(最もある年齢に成ってやっと曹洞宗だと云う事は知りました。)も良く考えずに今に至っています。
そして、今は女房の実家のある身延山(日蓮宗)に住んでいるわけです。
まあ、このあたりは結婚する時に相手が何宗何派など、考えずに結婚するのがほとんどだと思いますし、夫婦別宗等は当たり前のようですが日本人の身体には日本の仏教的考え方があちこちに染み込んでいるようでやはり、僕の場合は仏教の宗派にはこだわらず、釈尊の示された「菩提の境地に至る」を目標に勉強してみたいと考えます。
と,云う事で日本仏教のお勉強です。
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仏教の伝来:
『上宮聖徳法王帝説』や『日本書紀』第19巻』によれば
第29代欽明天皇13年(552年):百済の第26代の王 聖明王(在位:523年 – 554年)より倭国に金銅の仏像一体、幡、経典などが伝えられた。
587年:厩戸皇子(聖徳太子、蘇我氏『崇仏派』)は物部氏、中臣氏『廃仏派』との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立。
611年〜615年:厩戸皇子(聖徳太子)は仏教を厚く信仰し、『勝鬘経義疏』(伝611年)・『維摩経義疏』(伝613年)・『法華義疏』(伝615年)・の三経義疏を著された。
又、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。
710年〜794年:奈良時代710 年(和銅3年)元明天皇が平城京に都を遷してから、794年(延暦13 年)桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでのおよそ84年間。
南都六宗
南都六宗は学派的要素が強く、仏教の教理の研究を中心に行っていた学僧衆の集まりであったといわれる。つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う程度であったといわれる。
◯三論宗 -論:『中論・十二門論・百論』
-開祖:恵灌、寺院:東大寺南院
◯倶舎宗 -論:『倶舎論・摂大乗論・経論 』
-開祖:道昭、寺院:東大寺・興福寺
◯成実宗 -論:『成実論 』
-開祖:道蔵、寺院:元興寺・大安寺
◯法相宗 -経典:般若経・般若心経・金光明最勝王経・成唯識論・解深密経(げじんみつきょう)、 – 開祖:道昭、寺院:興福寺・薬師寺
◯華厳宗 -経典:華厳経、-開祖:良弁・審祥、寺院:東大寺
◯律宗 -経典:大乗経典全てを律蔵に加える、四分律蔵・法華経・梵網経、-開祖:鑑真、寺院:唐招提寺
南都六宗の内法相宗、華厳宗、律宗の三宗が、現在までも存続している。
700年代:「鎮護国家」の発想の下、「僧尼令」や僧綱・度牒制度が導入され官僚組織の一員とまで化した。(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。
7世紀前半には浄土思想が伝えられ、末法思想が蔓延、現世に失望した人々は、来性にこそ救いを見いだそうと死後は阿弥陀如来の極楽浄土への往生 を熱烈に願った。
794年〜1184年:平安時代:朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教(南都六宗)の政治への専横問題があり、この影響を排除するため桓武天皇は平安遷都(794年)を行い、又奈良仏教に対抗しうる新しい仏教として、最澄が唐から持ち帰った天台宗や空海が持ち帰った真言宗を保護した。
平安二宗(平安仏教)
◯天台宗- 開祖:最澄(766年~822年)、-経典:法華経・阿弥陀経・法華文句・摩訶止観・蘇悉地経・大日経、-寺院:比叡山 延暦寺
すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。
鑑真和上が将来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対し、最澄は大乗戒壇を設立し、大乗戒を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教との対立を深めた。
大乗仏教の考え方
釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づき、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という説を唱えた。この傾向を明確に打ち出した経典として『法華経』や『涅槃経』などがある。
出家者ではない俗世間の凡夫でも自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行を続けてさえいけば、誰でも未来の世において成仏できる(ブッダに成れる)と宣言したのが大乗仏教運動の特色。
最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直し、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
比叡山では「朝題目に夕念仏」というように天台宗では朝の勤行には題目(南無妙法蓮華経)と唱え、夕の勤行には念仏(南無阿弥陀仏)と唱えると言うところからも、それが伺えます。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としている。
◯真言宗- 開祖:空海(744年~835年)、-経典:金剛頂経・大日経・蘇悉地経・瑜祇経(ゆぎきょう)・理趣経・要略念誦経(ようりゃくねんじゅきょう)・法華文句、摩訶止観 、-寺院:高野山金剛峯寺
空海は、弘仁7年(816 年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創し、弘仁14年(823年)に嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。
空海は入定に際し、住持していた寺院を弟子に付嘱。
教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺を恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信などがあり、これらの寺院に年分度者(ねんぶんどしゃ)(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。
この頃は天台宗、真言宗、浄土宗も教団というよりむしろ学派という位置づけだったと言える。
平安時代
◯天台浄土教の発 祥:円仁(794年 – 864年)、 -寺院:慈覚大師円仁が開山、再興したと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされる。浅草の浅草寺はそのひとつ。
承和5年(838年)遣唐使の一員として留学、中国五台山で法照流の五会念仏、悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国。五台山の引声念仏を常行三昧に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。
814年(弘仁5 年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出 家)(21歳)。 816年(弘仁7 年)、東大寺で三戒壇の一つ具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の 東国巡遊に従い。天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選び宝塔を建て一千部 八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものだった。817年(弘仁8 年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
◯第18代天台座主:良源(912 年 – 985 年)、-寺院:比叡山延暦寺
『極楽浄土九品往生義』を著す。康保3 年(966年) 天台宗最高の地位である天台座主に上り詰めた。
良源は村上天皇の外戚(皇后の実父)である藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として 再建し、比叡山の伽藍の基礎をつくった。天禄元 年(970年) には寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、僧兵の乱暴を抑えることにも意を配った。良源は、比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の 維持など、さまざまな功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。弟子も多く、中でも『往生要集』の著者・源信(恵信僧都)は著名である。
◯天台宗浄土教空也派の祖:空也(903年-972年)
念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれ、民間における浄土教の先駆者と評価される。
◯浄土真宗、七高僧の 第六祖:源信 (942 年-1017 年)「恵心僧都」(えしんそうず)と尊称される。 -経典:無量寿経・阿弥陀経・観無量寿経・正信偈、
良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。
天暦4年(950年)比叡山中興の祖慈慧大師良源 (通称、元三大師)に入門し、止観業、 遮那業を学び、天暦9年(955年)得度、天暦10年(956年)15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。
◯融通念仏宗の開祖:良忍(1072年 – 1132年)、 -経典:華厳経・法華経・浄土三部教、 -寺院:大念仏寺
1117年(永久5年)阿弥陀仏の示現を受け、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の 念仏が相即融合しあうという立場から融通念仏を創始し、称名念仏で浄土に生まれると説き、結縁した人々の名を記入する名帳を携えて各地で勧進を行った。四天王寺に参籠した時に見た霊夢により、摂津国住吉郡平野庄(現大阪市平野区)の領主の坂上広野の邸宅地に開いた修楽寺が、その後の融通念仏の総本山の大念仏寺の前身である。
鎌倉時代
◯浄土宗の開祖:法然(1133年-1212年)、 -経典:観無量寿経・阿弥陀経・無量寿経・浄土論 -寺院:華頂山知恩院
1198年『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の「元祖」と称される。
浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。著書内で、時(時間)機(能力)に応じて釈尊 の説かれた聖教のなかから自らの機根に合うものを選びとり、行じていく事が本義である事を説いた。
◯日本臨済宗の開祖:栄西(1141年-1215年)、 -経典:般若心経・観音経・金剛般若経・楞伽経(りょうがきょう) -寺院:建仁寺。
延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
仁安3年(1168年) 形骸化した日本天台宗に嫌気し、南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来、当時、南宋では禅宗が繁栄、大いに感化され、仏法復興のために禅の重要性を感じたとされる。
建久2 年(1191 年)天台山万年寺の虚庵懐敞に師事、臨済宗の嗣法の印可を受ける。
◯浄土真宗の宗祖:親鸞(1173 年-1262 年) -経典:無量寿経・阿弥陀経・観無量寿経・正信偈 -寺院:龍谷山本願寺(西本願寺)・真宗本廟(東本願寺)
法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の冒頭に、釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した。法然の教えを継承発展、親鸞の没後その門弟たちが教団として発展させる。
◯日本曹洞宗の開祖:道元(1200年-1253年)、 -経典:般若心経・妙法蓮華経・金剛般若経・正法眼蔵(修証義)、-寺院:永平寺、總持寺。
徒(いたずら)に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎、ハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集め続けている。
◯日蓮宗の開祖:日蓮(1222 年-1282 年)、 -経典:妙法蓮華経・観音経、-寺院:身延山 久遠寺
釈尊の説いた仏法の極意が法華経にあるという中国の天台大師の教相判釈に基づき、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳『妙法蓮華経』を所依の経典と する。
日蓮は、いかなる凡夫にも「仏性」 が秘められており、題目「南無妙法蓮華経」(なむ・みょうほうれんげきょう)を唱える「唱題」の行を行えば「仏性」が顕現するという思想を説いた。
◯時宗の開祖:一遍(1239 年-1289 年)、-経典:阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経、-寺院:藤沢山無量光院清浄光寺(通称 遊行寺)寺院:藤沢山無量光院清浄光寺(通称 遊行寺)
1251年大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。
◯日本黄檗宗の開祖:隠元(1592年-1763年)、寺院:萬福寺。
当初、正統派の臨済禅を伝えるという意味で「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」を名乗っていた。宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。
隠元の法孫に当たる鉄眼道光は艱難辛苦の末に隠元のもたらした大蔵経を底本とした『鉄眼版(黄檗版)一切経』(万暦版の覆刻でその版木は、後世まで黄檗山の宝蔵院に収蔵され、貝葉書院を通じて、求めに応じて摺印が行なわれ続けている。)といわれる大蔵経を開刻・刊行、これにより日本の仏教研究は飛躍的に進んだ。
平安時代の円仁に始まる比叡山での浄土教研究、から鎌倉時代の法然、栄西、親鸞、道元、日蓮まで皆、天台比叡山に関係があるというのは最澄がめざした法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立と円仁以下新たに取り入れた浄土思想、そして其の中にあった日蓮の「仏法の極意が法華経にあるという」考え、等を見ると、天台仏教というのは仏教の総合大学の役目を果たしていたのでしょうか。
これらの事から、平安時代の末法思想のなかで、死後は阿弥陀の極楽浄土への往生を願う浄土思想「阿弥陀信仰」の後、弥勒菩薩が出現しお釈迦様の言葉で書かれた法華経をを広めるとする「法華信仰」への考え方も、仏教哲学の一つの展開だったようにも思えます。
奈良仏教の内三論宗、倶舎宗、成実宗を除いた法相宗、華厳宗、律宗の三宗、平安仏教の天台宗、真言宗の二宗、鎌倉仏教の浄土宗、臨済宗、浄土真宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗、黄檗宗の八宗の十三宗が現在も存続しています。
しかし、明治時代新政府による神道重視の政策の結果、全国で廃仏毀釈が行われ寺院数は減ったにも依らず、日本仏教は十三宗五十六派と言われるように五十六もの派があり、ただただ「菩提の境地に至りたいという」僕の様な者は混乱するばかりです。
仏教経典としては法句経、阿含経、般若経、維摩経、涅槃経、華厳経、法華三部経、浄土三部経、金剛頂経などで経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられていますが、現在、東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース(SAT)がより完成される事を願うのみです。
僕の「タラの頭」ではとてもこれらのお経を全て把握する等と云うのは不可能です。
という事で、やはり法華経と日蓮聖人の御遺文あたりからの勉強がやっとではないかと思うのです。
