2009.01.13
竹之坊(宿院)西谷
大久保石見守の後室妙性院は石見守死後当山に居住したが、逝去後(元和4年正月17日)にその住宅を引いて当坊舎に充てたと伝う(房跡録下)数度の移転を経、また火災にあった。
現住職 遠藤堯舜 41世。(出典:身延町誌)
http://takenobo.at.infoseek.co.jp/index.html
TEL:0556-62-0013 FAX:0556-62-3313
三門を入ってすぐ左に宿坊 竹の坊があります。
秋の楓、お会式桜等なかなかグッドな撮影スポットです。
先日、雪が降ったので写真を撮りに行ってみました。
みぞれになりそうな中での撮影でしたので画像が暗く、ろくな写真が撮れませんでしたが、門の内側から横にそれて菩提梯への参道に出ようとしてビックリです、何か見慣れた紋の彫られた石が側溝の蓋のように敷かれています。
横52cm、縦106cm、厚さ5cm位の大きさなのですが、いわれはともかくも、何かもったいないような気がします。
(画像はクリックして拡大画像が表示されたら、もう一度クリックして下さい、とても大きく表示されます。)
左の画像は大野山本遠寺にお万様(養寿院)のお墓を見に行った時にお墓の扉を撮影しておいた時のものです。
花の数以外は紋の下の格子模様まで殆ど同じです。
この紋は「立ち沢瀉(おもだか)」という紋で、沢瀉は「はなぐわえ」ともいい、小川や水辺に自生する植物で7,8月頃葉の間から花茎を出して白い花を咲かせるそうで、食用の慈姑(くわい)は、沢瀉の変種だそうです。
「おもだかや弓矢立てたる水の花」という句があり、沢瀉が群生している状態を見ると、まるで弓矢を立て並べたように見えるそうで、武将が沢瀉威し(おもだかおどし)の鎧を着用したりと沢瀉を戦勝の印しにしたようです。
戦国武将では、豊臣秀次、福島正則、毛利元就が用い、江戸時代の大名では水野氏、土井氏、奥平氏、堀氏、木下氏、酒井氏の諸氏が使用していました。
ことに水野忠邦は清和源氏の後胤で尾張知多郡小川に住んだ事から小川姓を名乗り、その後領地が変わり水野氏を称しましたが、通じて沢瀉紋を用いており又、木下氏は豊臣氏を受け継ぐ血統で「沢瀉紋」を代表紋としていました。
調べてみると、徳川家康の母「於大の方」は尾張国知多郡の豪族水野忠政とその夫人於富の間に生まれ、松平広忠に嫁ぎ竹千代(のちの徳川家康)を生みますが、於大の兄水野信元が1544年に松平家の主君今川家と絶縁し織田家に従ったため、於大は今川家との関係をはばかった広忠により離縁され、実家水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返されています。
このあたりにお万様の「丸に立ち沢瀉」紋と水野氏の家紋「水野沢瀉」紋との関係がありそうです。
「沢瀉」は通常は花が五個なのですが、図のように大野山本遠寺のお万様の墓所の「丸に立ち沢瀉」では花が三個に蕾が三個、そして竹の坊さんにあった紋には丸が無い「有馬立ち沢瀉」という紋のようですが、こちらの紋では花が五個に蕾が五個となっています。
このように「丸に立ち沢瀉」と「有馬立ち沢瀉」の違いや花や蕾の数の違いがあるのですが、紋というのは使う人、使い道等によっても少しづつ変化がつけられ一人の武将がいくつもの紋を使い分けた場合もあるようです。
身延山の近くでは山梨県の表門神社(うわとじんじゃ) 山梨県西八代郡市川三郷町上野字町屋2767では神社紋とされています。
参考に見に行ってみたいですね!。
◯市川猿之助家の紋も「立ち沢瀉(おもだか)」のようです。
という事はさておいて身延山の御廟所拝殿の左奥の篤信墓所(とくしんぼしょ)の中にもお万様のお墓があるのですが、この石扉はどこのものなのでしょう。
やっぱり、縁のあるものなので大事にしたいと思うのですが?もしかして僕にくれちゃったりして!まあ、そんな事はないですね。






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