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2008.07.11

singleアイコン身延山久遠寺と近衛牡丹紋

久遠寺の牡丹紋
久遠寺の牡丹紋

 『忠臣蔵』の敵役として有名な吉良上野介義央(きら-こうずけのすけ-よしなか[または“よしひさ”})1641-1703は、高家の極官である従四位上左近衛権少将に任官し、京都の朝廷と幕府との折衝役であり、儀典係・儀礼官といった格式のある役職を務め、知行地の三河国(愛知県吉良地方)にあっては名君であったといわれています。

 茶人として上杉家に出入りしていた東京池上の僧・山田宗偏は、上杉家を出所とする吉良上野介の奥方、富子夫人の側役を勤めており、富子夫人が眼病を患った時、ある夜夢に、童子が枕もとに立ち「これを治すなら、甲斐の国身延山の七面大明神に祈願しなさい」とお告げがあったといいます。

 このことを夫人から聞いた上野介(こうづけのすけ)は、直ちに夫人を連れ立ち身延山に登詣、滝で身を清め七面堂に篭り、精進潔斎の一七日間を過ごし「この病気が平癒すれば、生涯の守り本尊として崇拝し、新たに塩田を開いて報謝の志しとします」と誓願したところ不思議にも、満願の日に夫人の重い眼病が治りました。

 京都本山立本寺の貫首であった日脱上人が身延山久遠寺に晋山するにあたり、いわゆる一介の本山にすぎなかった身延山が総本山としての地位を築く必要があり、京都の朝廷に参内を企て、上野介(こうづけのすけ)は朝廷との折衝役をつとめました。

 この参内の折に使用する用具一式につける紋章が必要となり、久遠寺は公家であった近衛家猶子(ゆうし)格となり近衛家の定紋である芙蓉牡丹の紋章使用が許可されました。

近衛牡丹紋
近衛牡丹紋

 芙蓉牡丹紋は通称近衛牡丹紋ともいわれ、久遠寺の寺紋として現在も使われています。

 日脱上人は、延宝七年(一六七九)に総本山身延山久遠寺の三十一世の法灯を継承し、後の三十二世日省上人、三十三世日亨上人とともに身延山中興の祖として仰がれています。

参考:日蓮宗 現代宗教研究所(日蓮宗新聞[1999/02/10])

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