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2010.03.29

archiveeアイコン 甲比丹ゼームスの師小川泰堂

 小川泰堂居士(圓妙院泰堂日文居士)(1814〜78)12月25日に65歳で逝去
 相模の国藤沢宿の医者の家に生まれた小川泰堂居士は江戸で医術を学び、21歳のときに恩師大窪誌仏の娘と結婚。三十五歳のとき、回診の帰途に立ち寄った浅草の古本屋で日蓮聖人のご遺文を読み感銘を受け、これをきっかけに日蓮聖人のご遺文を通読した泰堂は日蓮聖人の衆生哀愍の慈悲に感動、仏法秘妙の極説が示されていることを悟りましたが、近世以来刊行されてきたご遺文の写本、刊行本に誤りが多く、三十年かけご遺文の校訂と集大成の仕事に取り組みました。

 たった一人で聖人の真蹟を照合し、偽作を削除、三百八十七書のご遺文を編年体(執筆された順)で整理、慶応元年から木版本『高祖遺文録』として出版、明治以降に発行された日蓮聖人遺文集の基礎となり田中智学高山樗牛 にも影響を与えました。

 『高祖遺文録』は明治以降に発行された日蓮聖人遺文集の基礎となり、日蓮聖人遺文研究の上で大きく役立てられています。

 また、だれにでもわかりやすく日蓮聖人の伝記を集大成し、各地の伝説までも細かく調べ、まとめ上げた絵入りの『日蓮聖人真実伝』(木版本五巻)を慶応三年に刊行しています。

 『日蓮大士真実伝』はそれまで出された日蓮聖人の伝記を元にしつつ、日蓮聖人の足跡と起居動作を明らかにしたもので、文と画の一体さと語りによる表現を駆使したことから、日蓮聖人伝の啓蒙普及に大きな役割を果たし、その後の日蓮聖人を主人公とした戯曲等の種本となっています。

小川泰堂・大窪誌仏の墓
小川泰堂・大窪誌仏の墓

 後年藤沢にもどった泰堂は医者として「医は仁術」に徹し、又藤沢の全町で一斉大安売りを行う「現金元値市」を提唱し、町民の結束と経済活動の組織として「土地繁栄社」を起こすなど藤沢の経済発展に尽力しています。

 小川泰堂居士の墓所は藤沢市本町〝小川家墓地(藤沢市史跡)にありますが、近年になり泰堂居士の末裔・小川乃倫子氏より個人管理していた泰堂居士の書物や遺稿を託す機関について本門寺で「現代仏教講座」の講師を務められている丸山照雄師に相談、池上本門寺の霊宝殿が候補に上がり、小川様より泰堂居士の遺品すべてが池上本門寺霊宝殿に献納される事となり、合わせ墓所は藤沢から池上本門寺大堂正面横へと改葬、平成20年12月25日居士のご命日に法要が執り行われました。

日蓮宗 現代宗教研究所:日蓮宗新聞[1998/01/10]より一分転載
日蓮宗 現代宗教研究所:小川泰堂の教化学

2008.05.22

archiveeアイコン 甲比丹ゼームス没後100年法要

甲比丹ゼームス没後100年法要
10月20日、甲比丹ゼームス没後100年法要が品川郷土の会(会長土屋恒行氏)、日蓮宗法蓮寺(重職渋谷幸道上人)、法蓮寺御持会の共催でゼームス氏の奥方になられた片岡浜子氏の遠縁にあたる檀家の宮野八哉氏のご出席を得、又ロンドン常行寺(塚本観登上人)のご一行4名様もご参加下さり身延山久遠寺にて布教部石川浩徳導師のもと盛大に執り行われた事に感激、感謝いたしております。

甲比丹ゼームスの墓碑
塔婆もきれいになった甲比丹ゼームスの墓碑

日頃はごく自然にただゼームス坂を利用していますが、改めてゼームス氏の足跡をたどる毎に氏の思いの上に経って日々の私達があるという事に思いを抱かずにはおれません。

かってヨーロッパ諸国がキリスト教宣教師の「神の意志を宣布する」という使命感を利用し植民地を獲得して行くというやり方に憤りを覚え、仏教の「一切の衆上に仏を見る」という、仏教の穏やかな信仰に思いを寄せ法華経に帰依したゼームス氏の思いと坂本龍馬等維新の志士達の新生日本への思いには互いに呼応するものがあったように思えるのです。

彼らを偲び思いを馳せる事で改めてゼームス氏等維新の先人の心に学び日本の心を振り返る事が今の日本にはなにより必要な事と思えます。

これからは10年毎ということではなく、毎年のようにゼームス氏に心を寄せる方々と共に一時を過ごせる事を願っております。

ご参加下さいました皆様、本当にありがとうございました。

2008.05.16

archiveeアイコン 身延山に眠る甲比丹ゼームス



甲比丹ゼームス
甲比丹ゼームス

 東京・南品川(大井町)に「ゼームス坂」という坂があります。この坂はもとは「浅間坂」と呼ばれる急峻な坂でしたが住民の難儀を思いやり、英国人船長ジョン・M・ゼームスは私費で緩やかな坂に改修しました。
近隣住民に大変よろこばれ、それ以来「ゼームス坂」と呼ばれるようになりました。

ゼームス邸
現在の大井町ゼームス坂の表示

ゼームスは明治四十一年(一九〇八年)七十一歳で横浜の病院で亡くなりましたが死の二、三日前に「遺骨は身延に」と言い残し、臨終の際には法華経を高く誦して瞑目したといいます。
遺言に従い墓は身延山久遠寺に建立されました。
日蓮宗の宗学者、小川泰堂に学び日蓮宗に帰依し自宅には純銀製の仏像(釈迦・文殊・普賢)の三体を作り朝夕礼拝していたといいます。


明治20年頃のゼームスが住んでいたゼームス邸

 当時、ヨーロッパ諸国はまず宣教師をたて「神の意志を宣布する」という使命感のもとに宣教師を使い植民地を獲得して行くという悪どい方法に ゼームスは怒り、友人や関義臣に上海・香港あたりで布教している宣教師たちを、口を極めて罵ったと言います。
 それに対し「一切の衆生に仏性を見る」という、仏教の穏やかな信仰にひかれたのでしょう。

 日本に留まる事となったゼームスはイギリスからの軍艦購入、艤装、回航、航海術等を日本人に教え、その後横浜鎮守府顧問、海軍省・逓信省顧問等を歴任、後年日本海軍の父と呼ばれました。明治二十三年政府より終身年金を受け、同二十八年には勲二等旭日賞を受勲しました。

 生涯著書等を残さなかったゼームスを知るには墓碑の左側面に刻まれている男爵関義臣を知る事が参考になります。

 関義臣は福井県藤島に生まれ嘉永四年から剣術・槍術・弓術・馬術・砲術を修業、その後橋本左内に非凡の才を認められ、文久二年江戸に出て昇平坂学問所に入り、元治元年には書生寮の舎長となりました。
 慶応二年十二月長文の意見書を携え、長崎に坂本龍馬を訪ねたおり「北国の奇男子、徹頭徹尾、我と同意見なり。爾後我に一臂の力を添えよ」と言い、多いに意気投合、亀山社中の一員となり海援隊にも参加しました。
 関は亀山社中の後ろ盾のもと宿願のイギリス渡航を願い慶応二年七月十日、長崎グラバー商会のグラバーと共に海援隊に協力していたゼームス船長の英国船ローナ号に乗り込み、長崎港を出発しました。
 しかしローナ号は上海から香港を経由、シンガポールに向けて航行中、大暴風雨に遭遇し船は沈没、乗員達は端艇に乗り移り上陸した所、青龍刀をふりかざした海賊に取り囲まれ、ゼームス等はピストル、関等は日本刀で応戦し血路を開き、九死に一生を得、思わぬ遭難のため英国行きはとりやめとなりゼームスは日本に留まることになり、それ以来二人は厚い友情に結ばれました。

名越荒之助著 二十一世紀へのメッセージ
「世界に生きる日本の心」 より一部転載させて頂きました。

2008.05.15

archiveeアイコン 甲比丹ゼームスの墓所

本堂裏の参道 本地堂 甲比丹ゼームスの墓所
久遠寺本堂裏の参道:
甲比丹ゼームス氏の墓は身延山久遠寺裏手、ロープウエー乗場の先の「奥の院」へ向かう参道を50m程登った所にある本地堂というお堂の脇にひっそりとたたずんでいます。
本地堂:
左に向かう舗装された登り坂を3分程上がると正面に七丁目目印の碑があります、これを折り返すとすぐに本地堂が見えます。
本地堂の向こう隣に甲比丹ゼームス氏は眠っています。
甲比丹ゼームスの墓:激動の維新を歩み、品川にゼームスを造った甲比丹ゼームスの墓にしては、少し寂しい気がします。ゼームスに思いを寄せる方の塔婆の存在が少しは慰めとなるのでしょうか?。

男爵 関義臣により建立された墓には次の様に記されています。
【正 面】日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼイムス墓
【右側面】東海院殿忠篤義國日光大居士 ゼイムス法號
【左側面】英国人ゼイムス氏来住於日本在慶應二年七月二十八。王政維新後海軍御雇教師又逓信顧問。明治四十一年一月八日没年七十一。及其病革皇室為御慰問賜洋酒二函。卒後又賜祭資金阡圓
友人 從三位 男爵 関義臣記
【背 面】明治四十一年一月八日卒年七〇有一。依 遺言 荼毘葬 身延本山

2008.05.14

archiveeアイコン 身延山 三光堂

三光堂
三光堂

奥の院へ向かう表参道コースを1時間程登った身延山上之山のひらけた所に三光堂と呼ばれるお堂があります。

三光堂ここは大光坊という宿坊がお守りされているお堂で
甲府宰相徳川綱重(1644年6月28日〜1678年10月29日 2代将軍)が子孫繁栄の祈願所として建立され、三光天子(日天子、月天子、明星天子)が祀られています。

大黒堂
大黒堂

大黒堂
大黒堂は寛文二年(1662)建立されここには日蓮聖人作と伝えられる大黒天が祀られています。

金銅釈迦如来坐像
金銅釈迦如来坐像

金銅釈迦如来坐像
空の下に金色に輝くお釈迦様の露坐仏は、61cmの蓮華座の上に丈1.82m、面長70.72cm、面幅54.55cm、肩幅 93.93cm、膝幅160.59cmある坐像で、京極信濃守高勝(京極宮津家,豊岡家分家)の寄進により明和9年(1772)に造立されたものです。

相輪塔
相輪塔

相輪塔
天明元年(1781)日蓮聖人五百遠忌報恩記念に際し、天下泰平を祈願して三万部のお経を読誦し、この地に建てられました。

相輪塔とは三重塔や五重塔の屋根の部分を取り払い柱と仏塔の屋根の上にある相輪の部分を表わしたもののようです。

現在歴史のある相輪塔は少なく比叡山延暦寺、日光輪王寺そしてこの身延山と、日本に三ヶ所だけにしか無いそうです。

archiveeアイコン 身延山 丈六堂

身延山 丈六堂
丈六堂

久遠寺本堂の裏手には奥の院へ向かう表参道コースがあります。それを30分程登った付近は「身延山上ノ山」と呼ばれ日蓮聖人が錦ヶ森と命名されたと伝えられる森があり丈六堂はそんなところにあります。

 丈六堂は寛永二十年(1643)本山の境内に釈迦堂として建立され、安置されている丈六の釈迦如来立像は寛永年間(1624−1643)に仏師として名高い京都鳴滝三宝寺中正院日護上人の作で、身延山第二十六世日暹上人によって開眼せられれたものです。

信仰に篤かった養珠院殿妙紹日心尊尼(お万の方様)が願主となって奉納されました。

その後、寛文四年(1664)の身延山第二十八世日奠上人の代に、現在地に遷座しました。

丈六釈迦如来立像
丈六釈迦如来立像

釈迦如来立像は蓮華座の上に立たれ高さは5m58cm(一丈六尺)あり、丈六堂と呼ばれます。
Wikipedia:丈

仰ぎ見る高さで金色に輝くお釈迦様はとてもすばらしいものです、お堂の扉は通常は閉じられていますがお守りされている尼僧さんに声をかけて是非お参り下さい。

 修復の際にはお釈迦さまの手足の部分からはお題目写経や願文などが発見され、内容から見るとお釈迦さまの造立、修復の際に江戸の庶民が納経した事が判りました。

千体仏1
千体仏1
千体仏2
千体仏2

堂内にはお万の方の寄進による20cmから60cmほどの金色の釈迦如来立像(千体仏)が安置されその数にも圧倒されます。