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2009.10.20

archiveeアイコン 花之坊 南谷

 開基 蓮華院日応上人、創立長録元年(1457)三月日応上人は積善坊流祈祷の大家で、その修行の滝を「蓮華滝」と伝える。明治7年(1874)普賢坊を合併、現在身延町共同墓地の管理を行う。(出典:身延町誌)
現住職(代務)望月海英
FAX:0556-62-1461
〒409-2524 山梨県南巨摩郡身延町身延4170

花之坊

香雲橋
香雲橋

 身延山総門を入り参道を7分程登ると右に俵石の句碑が、その向かいに身延川を渡る香雲橋があります。丁度参道が二手に分かれる所です。

香雲橋の登り坂
香雲橋の登り坂

 左に香雲橋を渡り登り坂を登った所に花之坊さんがあります。

 花之坊さんの先の蓮華橋を渡り少し登った所右に見えるガードレールを戻る様に登ると正面にお堂が、その右におおきな銀杏の木が見えます。

蓮華谷のオハツキイチョウ
蓮華谷のオハツキイチョウ

 イチョウの前迄の道が整備され、先日から側まで近づく事が出来るようになりました。

 これが「蓮華谷のオハツキイチョウ」で、身延町指定の天然記念物にもなっています。かなりの高さがあるのですが、周囲の木が邪魔をし、実際の大きさは写真ではよく判らないのが残念です。

花之坊さんに頂いた銀杏
花之坊さんに頂いた銀杏

 花之坊さんに頂いた銀杏です、とても奇麗で白い銀杏でした、これって直接実に触れば手がかぶれるし実を取り除いて銀杏のみにするのは大変な作業のようで、僕はまだやってみた事がありません。

2009.04.03

archiveeアイコン 麓 坊(宿院)西谷

麓坊の門

 宝聚院といい、開基は本山第12世円教院日意上人で同13世日伝上人閑居入寂の処である。往古はこの地より身延山の嶺に登山したもので、すなわち坊号はこれに由来すると伝えられる。明治7年(1874)蓮信坊を合併した。(出典:身延町誌)
現住職 望月淨教 46世。
http://fumotobo.ko-shu.jp/
TEL:0556-62-0071 FAX:0556-62-2897
〒409-2524山梨県南巨摩郡身延町身延3617

2009.03.09

archiveeアイコン 本行坊(宿院)西谷

 開基:本行院日学上人(比企大学三郎能本)弘安9年(1286)創立し、帝釈天王を奉安する。往古宗祖御開眼の上、能本公に授与された霊像で、故あって長く思親閣に奉安されていたが、安政5年(1858)身延山67世日楹(えい)上人代に、本行坊は開基日学上人の旧跡なる故、同坊に遷(うつ)して老若の信者の参詣の便にしたものである。また八之宮日延上人の御木像、御本尊等を格護している。明治初年本種坊・西之坊・常住坊・大蓮坊等を合併する。(出典:身延町誌)
現住職 下里是豊 47世。
TEL:0556-62-0019 FAX:0556-62-3015
蕗の薹のてんぷら
蕗の薹のてんぷら

ふきのとう(蕗の薹)
 いつもの食堂(最も僕はほとんど飲みに行くといったところですが)で突出しに「ふきのとうのてんぷら」が出て来ました。

 春を待ち構えて出て来る、ほろにがさがなんとも季節を感じさせます。

 春を待ち構えてまずは「ふきのとうのてんぷら」で一杯、何と贅沢な一時でしょう。と言いながらだいたい、てんぷらになる前の「ふきのとう」の姿を覚えていないので見せていただきました。

天ぷらになる前
天ぷらになる前の蕗の薹

 これでスーパーに行ってもすぐに判ります。ぜひ、「男の料理」も楽しんでみましょう。

 しかし、露地に出て来る蕗の薹を見た事がないなあ!と思っていたところ昨日みつけました。身延山ロープウエー下にある本行坊さんの入口を入ってすぐ右に、早速写真をバッチリ。

露地の蕗の薹
露地の蕗の薹

 この蕗の薹は花が白いので雌花のようですが、こんな風に見てみると来年は山のどこかで見つける事が出来るかも知れません。

 フキノトウ(キク科フキ属)がとても参考になりました。

 山菜屋.comさんでは山菜の通販もやっているので価格も参考になるかも?

2009.02.02

archiveeアイコン 樋之澤坊(宿院)西谷

 開基:身延山第2祖日向上人(六老僧)で安立院という。
 明治43年度「天鼓」誌に旧「法雲坊」を改め「樋沢坊」とする由の記事があり、曰く「慶応元年十二月十四日の火災に樋沢坊が焼失し、以来再建も危ぶまれ、法雲坊(身延山第十九世日道上人閑居所)に合併し今日にいたるが、樋沢坊は日向上人の旧跡で由緒浅からざるものあるによって、旧跡保存の上から、再び樋沢坊と改称する」とあり、爾来着々発展の途に就いたが、祖廟整備工事の進捗に伴い、本山の要請により、昭和14年(1939)6月14日をもって現在地に移転完了。明治7年(1874)了源坊・後円坊・玉泉坊・芳春坊を合併した。(出典:身延町誌)
現住職 望月海慧 48世。
TEL:0556-62-0050 FAX:0556-62-0135
樋之澤坊の門
樋之澤坊の門

身延山久遠寺、裏手より坂道を下りロープウエーの駅を右手になおも樋之澤川沿いに下る坂があります。
この辺りは身延山の中でも桜の時期には最も桜の美しいところで西谷と呼ばれていますが下って右手の一角になかなか趣のある門があります。

 ここは、僕たちに毎週「法華経の勉強会」で法華経の講義をしてくださっている身延山大学名誉教授の「望月海慧」先生の房でこの門は寛文年間(1661−72)の建立で四脚門、丸柱、茅葺で間口2.25m、奥行2.00m、高さ4.04mで町指定文化財となっており「全体に木割が細く繊細で、小振りの禅宗様を感じさせる門」と評価されています。

岩ヒバの屋根
屋根の「いわひば」

画像をクリックし拡大してみるとなんとか見えるのですが苔むした茅葺きの屋根の上にちょこちょこっと杉が生えているようにも見えるのですが、これは「いわひば」と云って江戸の昔から愛されてきた古典園芸植物だそうです。

 これは屋根の稜線に植え付けられているそうで、昔の人は趣を出すためにこんな方法でも自然の風情を楽しんでいたのですね!

「いわひば」については素晴らしいサイトがありましたのでリンクさせて戴きました、
「いわひば」

2009.01.13

archiveeアイコン 竹之坊(宿院)西谷

 開基:大国阿闍梨日朗上人、創立弘安3年(1280)9月、伝えいう八役給仕の久本房日元建治3年(1277)逝去、俗時の時3子があり、長子日進、次子日善、末弟日上各師である。日進父の蹤(しょう)を営みて竹之坊とした。日朗上人宗祖を訪ねる時は必ずここを宿とした。すなわち日朗上人を崇(たっと)び当坊開基とし、父日元を第2代とし、自ら第3代となった。第4代日善、第5代日上継承した。進善二師はともに久遠寺の3世4世を継いだ人である。
 大久保石見守の後室妙性院は石見守死後当山に居住したが、逝去後(元和4年正月17日)にその住宅を引いて当坊舎に充てたと伝う(房跡録下)数度の移転を経、また火災にあった。
 現住職 遠藤堯舜 41世。(出典:身延町誌)
http://takenobo.at.infoseek.co.jp/index.html
TEL:0556-62-0013 FAX:0556-62-3313
竹の坊の石
竹の坊の石

 三門を入ってすぐ左に宿坊 竹の坊があります。
 秋の楓、お会式桜等なかなかグッドな撮影スポットです。

 先日、雪が降ったので写真を撮りに行ってみました。
みぞれになりそうな中での撮影でしたので画像が暗く、ろくな写真が撮れませんでしたが、門の内側から横にそれて菩提梯への参道に出ようとしてビックリです、何か見慣れた紋の彫られた石が側溝の蓋のように敷かれています。

横52cm、縦106cm、厚さ5cm位の大きさなのですが、いわれはともかくも、何かもったいないような気がします。
(画像はクリックして拡大画像が表示されたら、もう一度クリックして下さい、とても大きく表示されます。)

お万様の墓の門
大野山 お万様の墓の門

左の画像は大野山本遠寺にお万様(養寿院)のお墓を見に行った時にお墓の扉を撮影しておいた時のものです。

花の数以外は紋の下の格子模様まで殆ど同じです。

 この紋は「立ち沢瀉(おもだか)」という紋で、沢瀉は「はなぐわえ」ともいい、小川や水辺に自生する植物で7,8月頃葉の間から花茎を出して白い花を咲かせるそうで、食用の慈姑(くわい)は、沢瀉の変種だそうです。

「おもだかや弓矢立てたる水の花」という句があり、沢瀉が群生している状態を見ると、まるで弓矢を立て並べたように見えるそうで、武将が沢瀉威し(おもだかおどし)の鎧を着用したりと沢瀉を戦勝の印しにしたようです。

お万様の墓
大野山本遠寺 お万様の墓所

 戦国武将では、豊臣秀次、福島正則、毛利元就が用い、江戸時代の大名では水野氏、土井氏、奥平氏、堀氏、木下氏、酒井氏の諸氏が使用していました。

 ことに水野忠邦は清和源氏の後胤で尾張知多郡小川に住んだ事から小川姓を名乗り、その後領地が変わり水野氏を称しましたが、通じて沢瀉紋を用いており又、木下氏は豊臣氏を受け継ぐ血統で「沢瀉紋」を代表紋としていました。

丸に立ち沢瀉
お万様墓所の「丸に立ち沢瀉」

 調べてみると、徳川家康の母「於大の方」は尾張国知多郡の豪族水野忠政とその夫人於富の間に生まれ、松平広忠に嫁ぎ竹千代(のちの徳川家康)を生みますが、於大の兄水野信元が1544年に松平家の主君今川家と絶縁し織田家に従ったため、於大は今川家との関係をはばかった広忠により離縁され、実家水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返されています。

水野沢瀉
「水野沢瀉」

 このあたりにお万様の「丸に立ち沢瀉」紋と水野氏の家紋「水野沢瀉」紋との関係がありそうです。

 「沢瀉」は通常は花が五個なのですが、図のように大野山本遠寺のお万様の墓所の「丸に立ち沢瀉」では花が三個に蕾が三個、そして竹の坊さんにあった紋には丸が無い「有馬立ち沢瀉」という紋のようですが、こちらの紋では花が五個に蕾が五個となっています。

 このように「丸に立ち沢瀉」と「有馬立ち沢瀉」の違いや花や蕾の数の違いがあるのですが、紋というのは使う人、使い道等によっても少しづつ変化がつけられ一人の武将がいくつもの紋を使い分けた場合もあるようです。

 身延山の近くでは山梨県の表門神社(うわとじんじゃ) 山梨県西八代郡市川三郷町上野字町屋2767では神社紋とされています。
参考に見に行ってみたいですね!。

沢瀉(おもだか)
沢瀉(おもだか)

 ◯市川猿之助家の紋も「立ち沢瀉(おもだか)」のようです。

 という事はさておいて身延山の御廟所拝殿の左奥の篤信墓所(とくしんぼしょ)の中にもお万様のお墓があるのですが、この石扉はどこのものなのでしょう。

やっぱり、縁のあるものなので大事にしたいと思うのですが?もしかして僕にくれちゃったりして!まあ、そんな事はないですね。

参考:『 沢瀉(おもだか) 』 紋 と その関連紋

2008.12.06

archiveeアイコン 覚林坊(宿院)東谷

 行学院といい、開山行学院日朝上人、明応8年(1499)78歳行学院を創して退隠の処とし、翌年6月25日入滅した。朝師堂の右手小丘に上人の廟堂がある。
明治7年(1894)11月、円応坊、信行坊を合併し、昭和24年日朝上人第四五〇遠忌を営んだ。
現住職、樋口是亮、第41世、身延山一老職。(出典:身延町誌)
http://www.fujikawa.or.jp/~higuchi/kakurinbo/
TEL:0556-62-0014 FAX:0556-62-0045

2008.11.24

archiveeアイコン 積善坊 元町

 開基 本山第13世宝聚院日伝上人、創立天文17年(1548)12月、初め東谷に在り、文政2年(1819)南谷に移転する。身延祈祷相承は代々法主であったが、日伝上人以降この坊に伝える。22世日遠上人は同坊第2世として、祈祷相承された。積善坊流祈祷の中興には、10世日閑、12世日順上人らがあった。
 明治7年(1874)文珠坊を合併し南谷より現地に移転する。
現住職 村松潮隆 26世。(出典:身延町誌)
TEL:0556-62-0408

 村松潮隆上人は2007年4月1日より七面山別当職についておられます。

太平橋
太平橋の向こうに見える幟旗

総門先,左側門内駐車場の向こうに赤い太平橋が見えます。

 こんな道を上がって行くと赤い「南無石割り大明神」と書かれた幟旗が何本も連なり「石割稲荷社」よ呼ばれています。

石割稲荷社伝説

 日蓮聖人ご入山の折り、山の中腹の大岩石が自然に割れ、その岩の中から白髪の老人が出てきて聖人を迎えた。
 聖人は老人に「お身はいずれより」と言葉優しくお尋ねになった。老人は手を合わせて申すに「私は元来身延の山に住みしもの、今は誰一人として愛してくれる人もないのみならず、追って追われて深い岩屋の中に閉ざされている哀れな野性のものでございます。」と、正体を現わして申すのであった。そしてなお続けて、「今世の生物に憐れみ深き日蓮聖人、甲斐路に入らせ給いて、領主波木井殿と御対面なさる趣を拝し、欣喜躍如、追いこめられた巌を破って出て参りました稲荷大明神の申し子……この世のために一日も早く御開宗なされますよう……」と申し上げるのだった。
 村人も奇異な感にうたれて、後にこの地に社を造り老人を神として祀った、これが今の石割稲荷社で、神社の前には、左右に割れた大岩石がそのまま現在も残っている。(出典:身延町誌)

archiveeアイコン 妙石坊(宿院)

 開基:学禅院日逢上人。創立元禄14年(1701)9月七面山登山に第1番目の華表がある。かつて宗祖この石上に説法し給い、七面大明神示現の処と伝えられ妙法2神を祀ってあります。(出典:身延町誌)
現住職 奥野本洋 28世。
TEL:0556-62-0238 FAX:0556-62-0708
妙石坊ののぼり旗
妙石坊ののぼり旗

 三門より奥之院 西参道を30分程身延川に沿って登った所に妙石坊はあります。
身延川を渡る前に妙石坊への石段があり、石段に沿って「南無七面大明神」と書かれたのぼり旗が連なっています。

高座石
高座石

 身延のご草庵に住まわれていた日蓮聖人は、今の思親閣がある身延山山頂によく登られ、亡き父母のお墓のある房総の方を拝されてはご両親を偲ばれておりました。

 建治3年(1277)聖人が身延山山頂より下る時いつものように大きな石の上より説法をされる時美少女が姿を見せておりました。

妙石坊 本堂
妙石坊 本堂

 毎日の如く聴聞に来る美少女の素性が人々の話題になり、日蓮聖人は説法の途中で傍にあった水差しをとり、その美少女にふりかけました。
 すると、美少女の姿はみるうちに一丈龍の龍に変じ、西方の七面山をさし舞い上がって行きました。

七面山信仰とその経緯