●最近の情報

連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」
病の経過:[今更遅い?養生訓]
当サイトでは firefoxoperachromesafari等、Windows Exploror以外のブラウザのご利用を推奨します。(アイコンをクリックするとダウンロードサイトに移動します。)

Home > 資料メモ

2009.01.12

archiveeアイコン 諸大名とその石高

 「身延山ガイドブック」を見直していくうちに、江戸の大名家の石高は現在の金額にして一体どのくらいになるのか気になりはじめました。

 豊臣秀吉は、各地を征服するごとに検地によって征服地を把握し全国統一の基礎としたため各地の石高が確定され、後江戸時代の幕藩体制の基礎となる石高制のもととなったそうです。(Wikipedia:太閤検地

 この時、「一人が一年間生きていくには米一石を必要とする」という事を基準にしたようでこれで各大名の石高が把握されたようです。

 ちなみに、ご飯茶碗八分目のご飯の量は110gお米を炊いた場合の量の増え方は2.3〜2.5倍になるそうで 110gのご飯の米の目方÷2.4倍≒48.5gの米 という事になるようです。

 という事はおよそ 米1合≒ご飯150g≒ご飯茶碗3杯分 というところが基準となりそうです。

単位換算によれば
「一石=2.5俵=10斗=100升=1000合」なので
1000合÷365日≒3合/日となりますが不足分は後は芋、粟、稗なども混ぜて食べていたのでしょうか?

 又、当時の年貢率は四割〜五割程度なので身延山総門を建立した三河刈谷藩初代藩主 三浦明敬 表高23,000石は実質9200石の収入という事になりますが農地の開墾が進んでいれば実高(内高)はもっと上だったかも知れません。(Wikipedia:石高

 そして、米1石=1両前後とされ、元禄年間から幕末の世情不安に至る前まで、ほぼこの前後の水準で推移していました。

江戸幕府の貨幣のレート
金1両=4分金=16朱=銀60匁=銭4貫文=銭4000文
とありますが実際には時価相場で交換されていました。

 幕末前までは金1両はおおよそ江戸時代の初期で10万円、中〜後期で3〜5万円、幕末頃には3〜4千円になってしまったようです。
参考:日本銀行金融研究所貨幣博物館

 金1両を現在の価値に正確に換算するのは無理だとされていますが、目安として米価で推し量ってみる方法ではどうでしょう。

 米1石=1両というのが目安になりそうなので、今の米価に換算してみると
平成19年度の自主流通米価は14,185円/60kgで平成15年度の21,078円/60kgと比べると大分下がって来ていますが、ここでは15,000円/60kgで計算してみます。
参考:コメ価格センター、 入札結果の分析

15000円÷60kg-=250円/kg
 1両=1石=150kgなので150kgx250円/kg=37500円/石という事になります。
これを町で購入する米の価格で計算すると、銘柄にこだわらなければ1kg350円前後ですから
1両=1石=150kgなので150kgx350円/kg=52500円/石という事になります。

 これは江戸時代に比べ米の生産量が格段に上がったために米の価格が大幅に下がっているという事のようにも考えられます。

一石=米1000合=金1両=銭4000文=8万円

色々な書籍を参考にしてみると、銭1文は今の金額にしておよそ20円、金1両は8万円を基準にして書かれている書籍が多いようです、次ぎにはこのあたりを元にして庶民の生活なども知ってみたいものです。

 これで計算すると「身延山総門を建立した三河刈谷藩初代藩主 三浦明敬」 の実収は
9200石×8万=7億3600万円位
の大名だったと考えれば良いのでしょうか。

参考:
幕末期、金1両の価値
江戸最新情報江戸の通貨

2008.11.25

archiveeアイコン 南部氏

nanbu01
南部氏系図 画像はクリ
ックで拡大表示出来ます。

 身延山の案内をしていてお客さんに「南部氏というのは東北の方ではないか」と聞かれてしまいました、そうなんですね!南部馬追い歌とか南部鉄とか南部と云えばすぐに思いつきそうなのに、僕の知識の範囲で「岩手県には北身延の寺と云うのがありますね」とか簡単に言ってしまったのですが 「北身延智恩寺」は

岩手県遠野市にある日蓮宗の寺院。1889年(明治22年)開山。北身延智恩寺。日蓮真筆の曼荼羅を所有しており、遠野市の文化財に指定されている。
TEL:0198-62-2370
住所:〒028-0524 岩手県遠野市新町1−34

とあり 1889年(明治22年)開山の寺では南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばした南部氏の説明にもなっていませんでした。(ごめんなさい!)

南部氏系図については様々な解釈があり一定していません、僕の勝手な解釈で割愛や処理をしています、ご注意下さい。
Wikipedia:南部氏
播磨屋サイト:南部氏
遠野南部氏物語
青森県 南部町:南部藩の足跡には下の説明以下、詳しく記載されていますので参考にして下さい。
1189年(文治5)8月 源頼朝が奥州藤原氏を平定
南部光行(なんぶみつゆき)は源頼朝から糠部(ぬかのぶ)を賜る

 南部 光行(1165〜1236)年、糠部地方(岩手県北部から青森県東部にかけて)を治めた南部氏が現代の南部 利昭(1935〜第45代当主)年までもつづいているという事には感慨深いものがあります。

南部氏の傾倒については多くの研究がなされているようです、此のページは僕の勉強次第で変更されることとなります、鵜呑みにせず様々な資料にてご確認下さい。

2008.05.17

archiveeアイコン 日蓮聖人の足跡(簡略版)

1222(貞応元年)二月十六日(1歳)、安房国東条郷(現在の千葉県安房郡天津小湊町)でお生まれになられました。

1260(文応元年)七月(39歳)、時の実力者、前執権北条時頼に、「立正安国論」を上呈、国家安泰の方法を述べられたが受け入れられませんでした。

 以降、松葉が谷法難(1260)伊豆法難(1261)小松原法難(1264)龍口(たつのくち)法難(1268)と四度もの法難を受けられました。

1268(文永五年)流罪となり十月二十八日 佐渡にご到着。

1272(文永九年)二月(51歳)、佐渡にて「開目抄」を執筆。『我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん。』という「三大誓願」を記し「詮ずるところは天も捨てたまえ、諸難にも遭え、身命を期せん」と法華経の弘通に一命をささげる決意をされる。

1273(文永10年)四月(52歳)、北条氏の執権政治で後深草上皇と亀山天皇の対立での内紛、又、蒙古の来襲も近づき日蓮聖人が「立正安国論」でのべられた予言が的中、聖人に対する態度を一変させ、佐渡塚原の粗末な小屋から一谷(いちのさわ)の豪族、入道清久の屋敷へと移される。「観心本尊抄」を執筆。

1274(文永十一年)三月八日御赦免状が佐渡につき、三月十三日佐渡真浦(まうら)から新潟の柏崎に到着、二十六日に鎌倉へ戻られました。

1274(文永十一年)五月十七日(五十三歳)、南部実長(さねなが)公の招きにより身延山へご入山され。三間四面の御草庵にお住まいになられ「撰時抄」(1275年)「報恩抄」(1276年)などを著述。

1282(弘安五年)十月十三日(六十一歳)、病身を養うためと、両親の墓参のために常陸の国(現在の茨城県)へ向かう途上、武蔵の国池上にてその波瀾に満ちた生涯を閉じられました。

これは身延山案内人のメモに過ぎません、より、良く判る「日蓮聖人の足跡」は日蓮宗ポータルサイトへお願いいたします。

2008.05.10

archiveeアイコン 仏教の宗派

 現代の仏教を『南無妙法蓮華経』『南無妙法蓮華経』『別無工夫』の3つに分類したものがありました。これは判り安いのですがちょっとメモ。

◆538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられた。

物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対し蘇我稲目は仏教に帰依したいとして私邸を寺として仏像を拝んだ。(仏教勢力)

◆飛鳥時代(6世紀の終わり頃から8世紀初頭)
物部守屋(神道勢力)と蘇我馬子(仏教勢力)の代まで対立はつづいた。

天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡、厩戸皇子は蘇我馬子側についた。

聖徳太子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。

この後、仏教は国家鎮護の役目を、天皇家自ら寺を建てるようになった。

聖徳太子:敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) – 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)

◆奈良時代(710年-794年)「南都六宗」三論宗、成実宗、倶舎宗、華厳宗 法相宗 律宗
渡来仏教が発展したが戒律などを無視する僧などが増えたりしたため聖武天皇の時代に鑑真が招かれ僧侶に戒を授けた。
 
◆平安時代(794年-1185年頃) 真言宗(高野山) 天台宗(比叡山)
寺院群が政治に口を出すようになったため桓武天皇は最澄、空海を中国に送り密教を学ばせた。

◆鎌倉時代(1185年頃-1333年)
■法華系『南無妙法蓮華経』
 日蓮宗

■浄土系『南無阿弥陀仏』
 浄土宗 浄土真宗 融通念仏宗 時宗

■禅宗系『別無工夫』夢窓国師 
(小手先の工夫を考えず精進しなさい。) 
 曹洞宗 臨済宗 黄檗宗(おうばくしゅう)

2008.05.06

archiveeアイコン 般若心経

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ しょうけんごうんかいくう
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう 
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
くうそくぜしき じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅうむしき
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色
むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみしょくほう
無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
いむしょうとくこ ぼだいさった えはんにゃはらみたこ
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
くきょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみたこ
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみた
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ 
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみたしゅ
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
そくせつしゅわ
即説呪日
ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい  はらそうぎゃてい 
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
ぼじそわか はんにゃしんぎょう 
菩提薩婆訶 般若心経